本サイトをご利用されるにあたってリンクに関してパートナーお問い合わせ PAGE UP
一ノ瀬泰造
一ノ瀬泰造 いちのせ たいぞう
一ノ瀬泰造

一ノ瀬泰造

いちのせ たいぞう

1947佐賀県武雄市にて清二、信子の長男として生まれる。
1963年佐賀県立武雄高等学校入学。野球部員として甲子園大会に出場。と同時に、物理部写真部門で活躍。1966年、日本大学芸術学部写真学科入学。部活動「フォトポエム」で赤津孝夫氏と意気投合し、課内外で切磋琢磨する。
1970年に卒業、UPI通信社東京支局勤務。その後、横田基地のPXで働き、インドシナ行きの資金を作る。

1972年1月、予てからの願いフリーカメラマンを目指し、インド、バングラディシュへ。インド・パキスタン戦争の終盤を撮る。その後、カンボジアへ入国。当時クメールルージュの根拠地となっていたアンコールワット一番乗りを目指し、シェムリアップへ。そこの土地の美しさ、人の優しさに魅せられ、しばらくの拠点と決める。しかし、アンコールワットを巡り、幾度となくカンボジア政府軍とトラブルを起こす。同年8月、遂にカンボジア国外退去を命じられ、ベトナムへ向かう。ベトナムでは毎日のように最前線に出かける。その甲斐もあり、次第に泰造の写真が国内外の紙面を飾ることになる。「アサヒグラフ」「週刊朝日」「ワシントンポスト」など。UPI月間賞、受賞作品もこの頃の作品。1973年4月、突然の一時帰国。被弾したカメラを残し、すぐにインドシナに戻る。ボクシングコーチという名目でビザを申請しカンボジア再入国。1ヶ月間という短期間だが精力的に活動する。ビザ期限切れで再度ベトナムへ戻るが、韓国弾薬船でメコン河を遡る決死行に出て、カンボジアへ再々入国。一層激化した戦火を撮り続けながら、アンコールワットへの潜入を企てる。11月、遂にアンコールワットへ単身潜行。消息を絶つ。

9年後の1982年、シェムリアップから北東14Kmのプラダック村で両親によって死亡が確認された。

「一ノ瀬泰造の足跡を辿る」はこちら

一ノ瀬泰造関連書籍や、イベント情報はこちら

ご遺族の方が管理・運営されているサイト 『TAIZO ICHINOSE PHOTOGRAPHY』