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1972年1月、予てからの願いフリーカメラマンを目指し、インド、バングラディシュへ。インド・パキスタン戦争の終盤を撮る。その後、カンボジアへ入国。当時クメールルージュの根拠地となっていたアンコールワット一番乗りを目指し、シェムリアップへ。そこの土地の美しさ、人の優しさに魅せられ、しばらくの拠点と決める。しかし、アンコールワットを巡り、幾度となくカンボジア政府軍とトラブルを起こす。同年8月、遂にカンボジア国外退去を命じられ、ベトナムへ向かう。ベトナムでは毎日のように最前線に出かける。その甲斐もあり、次第に泰造の写真が国内外の紙面を飾ることになる。「アサヒグラフ」「週刊朝日」「ワシントンポスト」など。UPI月間賞、受賞作品もこの頃の作品。1973年4月、突然の一時帰国。被弾したカメラを残し、すぐにインドシナに戻る。ボクシングコーチという名目でビザを申請しカンボジア再入国。1ヶ月間という短期間だが精力的に活動する。ビザ期限切れで再度ベトナムへ戻るが、韓国弾薬船でメコン河を遡る決死行に出て、カンボジアへ再々入国。一層激化した戦火を撮り続けながら、アンコールワットへの潜入を企てる。11月、遂にアンコールワットへ単身潜行。消息を絶つ。 |